英語のページ(2012年度)

【第41回】第40回の解答・解説 (2013/01/25)

modernという語を英和辞典で調べてみると、真っ先に目に入るのは「現代」と「近代」の2つでしょう。そして、この訳し分けをどうするかという問題に、池吉少年は随分長い間悩まされてきました。

「文脈からふさわしい訳語を選べば良いんじゃないですか?」

確かに“今の”私ならある程度自信をもって選ぶことができるでしょう。でも、そのためには莫大な背景知識と経験が必要になります。それを大学受験生に求めるのが適切とは思えません。

「いや、そんな莫大な背景知識なんて必要なくて、日本史や世界史の時代区分に照らし合わせれば難なく識別できるのでは?」

確かに、歴史の大まかな区分として「古代→中世→近世→近代→現代」という時代区分が用いられています。ですが、近代と現代の明確な境界線が確定しているのかと問われると、どうも雲行きが怪しいです。すぐに確認できるソースとしてWikipediaを取り上げてみると、「現代」の項目には「アジア史」「ヨーロッパ史」「文化史」等々に細分化された現代の定義が紹介されています。仮にWikipediaの記述が歴史学における定説であるとしても(恐らくはもっと複雑で錯綜とした論争があるのでしょうが…)、それらを網羅的に学習していなければ「近代」と「現代」の訳し分けができない、というのはあまりに負荷が大きすぎます。また、大学入試英語の観点から見ても、英語の試験なのに高校レベルを超えた歴史学の知識が要求されるというのは、何かおかしいと思います。

それでは、一体どうやってmodernの意味を定義すれば良いのか…強者を志す貴方は、こういった問題に何度も出くわしてきたことと思います。特に最難関レベルの大学入試問題になると、大学レベルの背景知識が要求されるものも少なくありません。ですが、ここで注意しなければならないのは、貴方が挑もうとしているのは英語の試験であって一般教養の試験ではない、ということです。

今回出題した問題のキーワードであるmodernについてもそうです。「京大の入試問題だからきっと莫大な背景知識がないと解けないに違いない」と思いこみ、おおよそ大学生でも知らないような術語を頭に詰め込むことが、真に貴方を京大合格へと導いてくれるのかと問われれば、私は迷わず「No」と答えるでしょう。事実、この語の意味を判断するために必要なのは、「近代」と「現代」の相違についての基本的な理解と、時制についての基礎的な知識だけなのだから。

前置きはここまで。改めて問題を見てゆきましょう。

第40回の解答・解説

(PDFファイルが開きます)

【第40回】1973年(昭和48年)の京都大学からの問題 (2013/01/18)

また、この季節がやってきました。

今まで蒔いてきた種が芽吹く春を迎えるための、最後の試練の時です。

授業を、映像を、そしてこの文章を通じて出会った貴方に、最高の笑顔の花が咲くことを心より祈りつつ、最後の力試しの機会を贈りたいと思います。

こんにちは、研伸館英語科の池吉です。今回の問題は、1973年(昭和48年)の京都大学から。出典はMalcolm BradburyのThe Social Context of Modern English Literatureです。この文章で論じられているのは、恐らく現代文でもお目に掛かるであろう『モダン(modern)』についてです。と言っても、いわゆるポストモダン(Postmodern)を直球で扱うのではなく、modernという語のもつ意味をより深く考えてみたいと思います。

それでは、解説編で再びお会いしましょう。

1973年 京都大学からの問題

(PDFファイルが開きます)

【第39回】第38回の解答・解説 (2012/11/09)

11月の初めは、学園祭をやっている大学が多いようですが、そのことに気づくのは、たいてい夜遅くに私の住む街の駅に着いたとき、死屍累々と横たわる酔っぱらった大学生の惨状を見たときです。

封印された学部生時代を除くと、学園祭の時期はいつも大学図書館に籠もって論文を執筆していました。大学院生になると鍵付きの個室が借りられるようになるので、ノートパソコンと資料の論文、そして四〇〇字詰め原稿用紙を大量に持ち込んで、原稿用紙に書き散らかした草稿をワープロソフトで一本の筋の通った流れに仕上げてゆくという作業を延々とやっていました。そして目や手が疲れると、学園祭をぶらりと回って気分転換をし、再び執筆に戻り、小腹が空いてくると出店を回り…今考えてみると、この時期に執筆が捗った印象はあまりないです。それでも自宅に籠もるのではなく大学に足を運んでいたのは、実は私なりに学園祭を楽しもうとしていたのかもしれません。

そんな文献講読と論文執筆に明け暮れた大学院生時代の私にとって、一番の悩みが『息抜き』でした。根を詰めて書き続けても、良い文章なんて書けません。事実、頭の中を一度空っぽにしてリフレッシュした方が良いアイデアが浮かんでくるものでした。ですが、提出締め切りが迫る中で脳天気に遊び呆けていられるほど、私の神経は図太くありませんでした。だから、比較的短期間の間、頭の中から論文のことを追い出せる方法がないものかと頭を悩ませて…最終的に辿り着いたのが、散歩と腹筋でした。そこでランニングをしていたら今のようなメタボリックな体型ではなくなっていたのでしょうが、疲れ果ててしまっては執筆に差し支えてしまいますから、適度な疲労感で満足しなければなりませんでした。それでも、散歩のときは1駅分は歩いていましたし(帰りは電車でしたが…)、出歩くような余裕がないときは腹筋を無心にやっていました。その後で執筆に戻ると、さっきまで解決不能に思われていた事柄の解決策があっさりと見つかったものでした(それでも駄目な場合は、寝るに限ります)。

大学受験生にとっても、この『息抜き』は大きな課題になるでしょう。入試本番までに力を伸ばさないといけない、でもこれ以上勉強し続けるのは辛い…そんな時は、適度に身体を動かすというのは効果的な対処法だと思います(この文章を書きながら、そう言えば私も高3生の頃はよく散歩をしていたのを思い出しました)。

今回の文章のテーマは『怠惰』なので、もはや息抜きを通り越しています。多くの人にとって、怠惰であることは決して褒められたものではない属性になるでしょう。ですが、私は怠惰であることは才能の一種だと思います。私には、息抜きが精一杯です。

第38回の解答・解説

(PDFファイルが開きます)

【第38回】1978年(昭和53年)の京都大学からの問題 (2012/11/02)

こんにちは、研伸館英語科の池吉です。今回は、エッセイ調の文章に挑んでみたいと思います。

今回の問題は、1978年(昭和53年)の京都大学から。この時代の京都大学は大学入試センター試験も、その前身である共通一次試験も始まっていなかったので、現在では決して見られないような形式(例えば、「前置詞を答えなさい」だけの大問とか!)も見られます。もっとも、「ええっ、そんな問題が!?」と目を輝かせるのは一部の予備校講師だけでしょうから、ここでは現在に至るまで貫かれている和文英訳問題を取り上げることにします。問題自体はごくごく標準的な難易度なので、むしろこの文章の内容を味わってもらえたらと思います。

テーマは、ズバリ「怠惰」です。この時期の高3生にとっては無縁の言葉ですが、大学生になると、こいつといかにして上手く付き合ってゆくかがテーマになる…かもしれません。

それでは、解説編で再びお会いしましょう。

1978年 京都大学からの問題

(PDFファイルが開きます)

【第36回】1981年(昭和56年)京都大学からの問題 (2012/08/24)

こんにちは、研伸館英語科の池吉です。今回も、「温故知新」をテーマに名文を一緒に味わってゆきたいと思います。

1981年 京都大学からの問題

(PDFファイルが開きます)

【第35回】第34回の解答・解説 (2012/06/22)

「人間とは○○である」、という格言があります。「人間は社会的動物である」(アリストテレス)然り、「人間は万物の尺度である」(プロタゴラス)然り、「人間は考える葦である」(ブレーズ・パスカル)然り。個人的に好きなのは、松田優作の「人間は二度死ぬ」です。知らない人は、せっかく今ブラウザを立ち上げているのですから、読後に検索してみてはどうでしょうか。

第34回の解答・解説

(PDFファイルが開きます)

【第34回】1979年(昭和54年)京都大学からの問題 (2012/06/15)

昨年度からの人は、お久しぶりです。今年度から見始めた人は、はじめまして。研伸館英語科の池吉です。今年度は、私が強者を志す貴方が挑むにふさわしい問題を提供してゆきたいと思います。

昨年度は「要約問題」を中心に出題してきたのですが(未見の人、特に東大志望者は必見です!)、今年度は「温故知新」をテーマに、市販の参考書では滅多にお目にかからない、でも非常に含蓄深くて解き甲斐のある問題を紹介してゆきたいと思います。

今回の問題は、1979年(昭和54年)の京都大学から。文章の主題は、一言で言えば「人間と動物の違い」。これだけだと「もう読み飽きたよ」と言われてしまいそうですね。中には話の展開を邪推する人もいるかもしれません。「どうせ言語の話に落とし込むんでしょ?」とか「人は社会的動物だってオチですか?」とか。もちろん、そんな陳腐な話題を貴方にぶつけるつもりは毛頭ありません。この文章において、人間と動物を区別する鍵となるのは「歴史」です。

それでは、解説編で再びお会いしましょう。

1979年 京都大学からの問題

(PDFファイルが開きます)